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- 苺電波コラム 第53回 -

「純愛の狂気(その2)」


純粋な愛には狂気が宿っている. それは18禁ゲームでも変わらない.

「好き好き大好き!(13cm)」は純愛の狂気を描いた作品としては傑作だ. 蒲乃奈への行過ぎた愛情とゴムへの異常なまでの愛情. ゴムの強烈な印象でフェティッシュな部分だけに目が行きがちだが, それだけでは主人公の異常な行動を説明することはできない. 蒲乃奈への純粋すぎて危険な愛情あってこその「好き好き大好き!」なのだ.

「好き好き大好き!」のようなはっきりとした狂気ではないけれど, ONEの長森シナリオも狂気すれすれの危なさを秘めている. 長森シナリオの評価を落とす最大の要因になっている主人公の一連の酷い仕打ち. しかし,それは長森への愛の欠如ではなく,長森への愛の歪んだ表現であり, 他のシーンでの滑稽な愛情表現と根底にあるものは違わない. 一方の長森にしてもそういう主人公の愛をどこまでも受け止め, 愛し通すわけで,やっぱり普通ではない.

そりゃ狂気が宿っているのだもの. 普通でなくたって不思議ではない.

普通に純愛を描くのは難しい. 純愛っぽいシーンを描くことはできても,純愛そのものはなかなか描けないのだ. 大抵は作り手の純愛のイメージをただ描いただけになる. 純愛に同じようなイメージを持つ人を共感させることはできても, そうでない人は嘘っぽく感じてしまう.

いかにも純愛らしく,美しくみせようと思うともっと悲惨だ. いくら頑張っても美しくなるのはシーンだけであり, 登場人物の愛情そのものではない. 結局,純愛を演出する努力はことごとく愛の純粋さを汚し, シーンの美しさをあざ笑うかのように人間の醜さを映し出してしまう.

美しいシーンが愛を純粋にするのではなく, 純粋な愛が醜いシーンを美しくするのだ.

一般には純愛ゲーとは反対側にあると思われているバカゲーや鬼畜ゲー. だけど,本当のところは, 純愛っぽいシーンを連ねた純愛ごっこゲー以上に純愛を表現できる潜在性を持っている.

当たり前だ. 好きだからってこんなことして許されるんだろうかとか, こんなことしてバカじゃないだろうかとか, こんなことして嫌われないだろうかとか, そんなこと考えずに行動して許されるのだもの. 恋愛感情そのままで突き進んでもゲームが破綻しないんだもの.

本当の純愛ってね,気持ちいいんだよ.きっと.


次回の苺電波コラムはごうです。


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