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- 苺電波コラム 第86回 -

「ゲームで見た夢(9) 〜 Wizardry 〜」


■非常に長い前置き

先々週の連休に私は関東方面に遠出した。しばらく仕事が忙しかった反動で遠出がしたくなったという理由で、なにかイベントあるわけでもなく(オープンソースまつりは開催されていたし、同人系のイベントも複数開催されていたらしいが)、ただ適当にぶらぶらしてだけだったが結構良い気分転換になった。
その遠出の二日目の夜に人に誘われて馬車道に行ったのだが、その時にれろれろさんという方から名刺をもらった。その時は名刺を貰っただけでどんなことをしている人かまったく知らなかったのだが、その夜にごうさんの家に泊めてもらい、「たのしい Linux」という広報誌を見せてもらった。ざっと中身を読んでみると結構興味の引かれる内容が書いてあった。中でも「使い捨てにされる文化」という章に興味を引かれた。
このコラムでも何度か書いていると思うが、何度も遊べるゲーム=面白いゲームという公式が私の頭の中にはある。年末に大掃除を行ったが、本当に面白かったと思ったゲームはいつでも取り出せるよう棚の中にしまってある(それ以外のソフトは全部押し入れ行きである)。最近では何度も遊ぶほどの魅力のないゲームはプレイせずに攻略本なりを買ってきて読んだほうが面白いと思うようになっている。
こんな事を思っている私だから、実は若干のショックを受けた。いや、最近のゲームの傾向を見て分かっていたのだが認めたくなかっただけなのかもしれない。画質なんてモノは「金と技術力さえあればどうにでもなる」ものでありしかもそれは「時間がある程度解決してくれるもの」であるから、実に刹那的なモノなのである。なのに今のゲームはそれを最も重要視する(傾向にある)。そんなゲームが売れるという事は遊び手側も繰り返し遊ぶことを最初から放棄していると言えるのではないか。私はこれだけゲームが好きなのに、今のゲーム業界から見ればむしろ招かれざる客のかもしれない。そう思うと少し悲しくなる。
と、ごく一部の記述から私の思ったことを書いてみたが、これ以外にもいろいろな事が書いてある。2/28日現在、広報誌に書かれていたものは全て web で公開されているので興味のある方は見てみると良いのではないかと思う。

■最初に地中に潜った日

Wizardry について書くぐらいだから昔からやってたか…というわけではない。最初にマトモにプレイしたのは PlayStaion版リルガミンサーガである。それ以前の wiz というと、かつてコミックであった Wizardry(今となっては作者が誰で出版者がどこだったかも不明、黒いごつい本だった事は覚えているが…)ぐらいなものである。ちなみに(一部では非常に)有名なベニー松山著の「灰と隣り合わせの青春」は読んだような記憶があるが定かではない。「風よ、龍に届いているか」の方は探したがついに見つからなかったという記憶がある。#5 の頃ですら私はまだ中学生で PC 版をプレイする事もできなかった。この程度ではあるが、Wizardry には非常にあこがれがあった。ほとんど内容を知らない Wizardry で小説を書いたこともある。結局は完結しなかったのだが前半の山場のシーンは今でも覚えている。思い出すだけでわくわくする。もしかしたら私の嗜好の原点はあそこにあるのかもしれない。余談ではあるがこのあこがれが少々形を変えて女神転生への思い入れに変わるのだがこれに関してはまた別の機会に書く事にしよう。
そんな中学生時代から大きく間を空けてリルガミンサーガに移るわけだが、果たしてそれは私のあこがれを裏切るものではなかった。PlayStationであるがゆえのリセット技とか、オートマッピングとか、難易度を下げるための要素が沢山あったからとはいえ、しばしの間ひたすら地下10階をさまよった。村正や君主の聖衣をもとめてひたすら同じ道を巡回した。本来の目的であるワードナ討伐の事など忘れて地上と地下を往復した。
結局のところ、まともにのめりこんだのは #1 だけで、#2,#3 は途中で挫折している(というか、#2,#3 をするよりも #1 でアイテム集めに没頭していた方が楽しかった)のだが、Wizardry は面白かった。今風にカスタマイズされているとは言え、システム自体は昔のままである。本当に面白いゲームは何度も遊べるという事を信じれるモノが確かにここにあった。

■そして今

PS 版の Wizardry EMPIRE をプレイしている。結構厳しい評価をしているところもちらほら見かけるが、PS 版に限れば、それほど悪い出来ではないのではないかと思う。先日、ようやくラスボスを倒した。しかし Wizardry はボスを倒す事だけが目的ではない。ボスを倒せるようなレベルになって初めて本当の部分が始まると言っても過言ではないと思う。強い自分を作るための旅。到達点は自分が満足するまで。
きっと今もこの世界中のどこかで、ワードナが新しい冒険者が迷宮に足を踏み入れるのを待っているに違いない。そして私も、再び踏み入れる事を、望んでいる。


次回の苺電波コラムは東雲あずみです。


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